元気夢工房

写真を中心に風景・花・ポエムを綴っています

100円のうどん

みなさま、こんばんは。
東京ではまたコロナが流行り始めましたね。
みなさまもくれぐれもご自愛くださいね。
今日の母は朝から下痢が続き「〇〇、私は本当に元気になったの?大病じゃないの?」と聞かれました。私は「病院からもう大丈夫ですよと言われた通り元気になれたよ。心配ないからね」と言葉を掛けました。今日の夕飯は何がたべたい?と聞くと「ソーメンが食べてみたい」と言うのでヘルパーさんに買い物を手伝っていただき準備ができました。あとはソーメンを湯がくだけですが、初めて作るので味は保証できないと言うと「あんたは若い頃から料理などしたことがないからな」と言い作り方を教えてもらいました。母の欲しい食べ物なら下手くそながら作ってみようと思いました。ソーメンを湯がく時間になったので母の教え通りに作ろうと挑戦してみました。案の定大失敗で生ごみになってしまいました。母は笑いながら「あんたのできる料理でいいよ」と言ってくれました。母が病に伏せ母のかわりにと頑張ってきましたが、いつも同じ料理しかできず情けなく思います。母が元気な頃、毎日出来合いの料理ばかりで不満で一杯でした。母が倒れ私が代行することになり家事、面会と忙しい日々が続きました。私にできることは限られていますが私なりに頑張ってきました。
そして母の代行をするようになって要約母は毎日こんなに働いていたのかと驚くくらいでした。身長148センチの小さな体で大きな事をこなしてきた母の努力がよくわかりました。
母の末期癌という大病を抱え、毎日病室でテレビをみることもせずただ耐えていたことはどんなに辛いことだったのかよくわかりました。入院してから母はわがままになり時にウザイ存在となり、また泣き言かと嫌になっていました。しかしその時母は孤独と不安で一杯でそれでわがままになったのかと理解しました。
病に伏せても家族以外面会者もいません。
私がその立場に立てば心が折れてしまい生きる事さえ諦めたと思います
母が退院してからさらにわがままがひどくなり怒りすら覚えました。
姉に言えばそれが認知症の証
あんたは鬼になれと言われました。
しかし今までの親不孝を考えたら鬼になることはできません。
私は数十年前に介護職に就き認知症の利用者さんを何人もみてきました。
しかし母が認知症になり私は何をすればいいのかわからなくなりました。
私が介護職に就いて絶対の自信があったのですが、大きなダムが小さな穴から崩れていくことを思い始めました。私が介護職として働けたのは心のどこかに他人事と思っていたのでしょう。末期癌、認知症これ以上ないほどの苦しみに耐える母。
同じ事を何度も繰り返し飽き飽きしていましたが、今は母小さな体で大きな病気と闘っているのだと思えば鬼になれません。姉に言わせればあんたが鬼にならない限りあんたはずっと辛い思いをするし母にも孝行などできないよと言われました。
姉が言う事は正しいと理解できるのですが、あんなに優しかった母に対し鬼になれません。
それが母に苦痛を与えるだけと言われましたが母との思い出は消えません。
母のわがままを受け容れることが私の最大の孝行と思っているのですが、間違いかもしれません。今夜の夕飯時、母は機嫌がよくよく笑っていました。私が作った料理は100円のうどんです。おかずすら準備できませんでした。母は「あんたは若い頃から料理はしなかったからしかたないね」と苦笑いをしていました。我が家では何があってもご飯時は家族揃って楽しく食べるが基本です。
私は食事が終わればすぐ自室に戻るのが習慣となっており、今夜も夕飯が終わると自室へ戻ろうとおもったところ母が「〇〇。すぐ部屋に帰らずもっと話をしようというので母はきっと寂しいのだろうなと思いたくさん喋りました。くだらない話ばかりでしたがそのくだらない話を母といつまでできるのだろうと思うと母の気持ちがよくわかりました。母は現在友人もおらずいつも孤独です。年賀状が届くたび私にも年賀状届いている?と聞くので何も届いていないと言うと寂し気にうつむいていました。そんな母を前にしふと母に見て欲しい写真があったことに気付きました。その写真は私が若い頃付き合っていた彼女との写真です。
母に是非見て欲しい写真があるというと早く診たいと言ってくれたので早速写真を見てもらいました。母は写真を見て「あんたは若い頃、髪がふさふさだったのに今では禿げてしまったね」と笑っていました。「あんたと一緒に移っている彼女はどんな娘?」と尋ねるので、私の人生において過去にも未来にも彼女を超える女性はいないよ。今でも愛してると答えました。そんな大切な写真を見せてくれてありがとう。大切に保存するんだよと言ってくれました。私は何気なくみせた写真ですが母の最期を迎える前に見てもらってよかったとうれしかったです。母は癌と闘いながら衰弱する自分を知りながら懸命に生きています。私にできることはもう少ししか時間がないと思っています。母に写真を見せたことが一番幸せでした。本当に間に合って良かったと思います。母がその時を向かえ旅立つ時遺品すらありません。そこまで孤独だったのです。せめて家族一同揃った写真をいれてお別れしたいと決めました。そして私は母の前で「今日までありがとう、何一つ親孝行をできないままこの日がやってきたね。さよならは言わないよ。必ずあの世で会えるからね。今日までごくろうさまでした」そう言おうと決めています。しかしその日が来たら私は涙で言葉として伝えることができないと思いますので今ここで投稿させていただきました。まだ希望を捨てた訳ではありませんが、明らかに衰弱しています。これが神の判断なのかと恨みましたが、反面母が苦しむことなく旅立って欲しいと神に祈りました。
母の件でほんの少し心が強くなったかもしれません。
母は最期まで私に人生を教えてくれました。
もう少し母との暮らしをつづけることができることが私の最大の願いです。
今夜食べた100円のうどん
とても旨かったです。
いつも泣き言ばかりで男らしくありませんが、もう少し泣かせてくださいね。

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