元気夢工房

写真を中心に風景・花・ポエムを綴っています

愛と死をみつめて

連投ですみません。
暗い話ばかり恐縮ですが酒の肴程度に読んでもらえればうれしいです。
今夕涙を流したことは前述いたしましたが、涙のあと母と思い出話をしました。
母の生い立ち、新婚時代、子育てなど色々話しました。
母が新婚当初金がなく知人の家を宿狩りしていたそうです。
財産という物が何もなく新婚当初から貧乏暮らしをしていたそうです。
母にはそれが当たり前と思ったらしくばあちゃんが所有していた山を売り現在の家を買ったそうです。父のお母さんは働き者で土釜の前で動き続けていたそうです。
働き者のおばあちゃんも認知症で病に伏せ、新婚当初からばあちゃんのお世話を続けていたかあちゃん。新婚当初から苦労を抱え休む間もなくばあちゃんの世話をしていました。
私は婆ちゃんっ子で婆ちゃんが大好きでした。しかし親戚の人間がくるたびこの家は臭いとか汚いとか言われたそうです。家を買った時にもうすでにオンボロ家だったそうで親戚からお金を借りて修繕しお金を儲けるたびに改修したそうです。両親にとって思い出深いおんぼろ我が家ですが私はそれが当たり前と思っていました。風呂やテレビも買えず近所の家でお風呂を使わせていただきました。タイル張りのお風呂でしたがとても幸せでした。
ほんのわずかテレビを見させてもらい力道山に燃えました。当時放映されていたドラマは「愛と死を見つめて」という番組でした。まこ甘えてばかりでごめんね、みこはとっても幸せなのという曲が流れそれはそれは悲しいドラマでした。それを見を終えた頃、帰宅したことを覚えています。近所の裕福な暮らしをしている家からよく遊びに連れて行ったものです。大阪万国にもつれていってもらいました。一人前にお洒落をしアメリカ館で月の石を見るのが楽しみでした。日本館にも行きましたが覚えていません。父が一生懸命働き我が家にも白黒テレビが買えました。それはとても珍しく番組よりも仕組みに興味を抱いていました。登場人物が出るたびにテレビの中に人が入っていると信じていました。テレビを見る時いつも父の足の上に頭をおきテレビをみていました。両親と蒸気機関車で薬王寺や高知の日曜市に連れて行ってくれたことを覚えています。帰り道母の膝の上で寝ていた写真が残っていました。それを見るたびなつかしく思えます。甘えん坊の私でしたが母の膝の温もりは忘れられません。わがままで好き放題に遊んでいたことを思い出します。当時の道は舗装もされておらずおんぼろ道でしたが、それが好きでした。金魚売りのおじさんや富山からくる薬売りの叔父ちゃんからもらえる紙風船が楽しみでワクワクしていました。当時は下宿など当たり前で我が家の近所の大きな家には下宿人が宿り、毎日牛乳を買ってくれていました。
我が家の近所には警察署があり白バイが珍しく警察にも遊びに行きました。道に落ちていた5円をひらい警察まで持っていって〇〇、ありがとうとと言われるのが大好きでした。
我が家が貧乏だと思ったことは一度もありません。
無い物は無い
それが当然でした。
父に初めて自転車を買ってもらった時のうれしさはいまでも鮮明に覚えています。
父や母の優しさで育ち今でも感謝の念は忘れません。
それから数十年経ち恋することを覚えました。
優しさに包まれながら育った私は未だに成長していません。
忘れられない恋を二度し未だ忘れることができません。
そんな話まで母と語らいました。
父や母の新婚時代の話を聞いたのは初めてでした。
幼き頃からわがままで親離れできない子供となり両親には申し訳なく思います。
思い出を語れば尽きないほどありますが、苦労を掛けたという事は肌身をもって知りました。この世に生を受け62年はずかしながらも生きてきました。これからは恩返しの日々となります。間に合うかどうかわかりませんが一言わがままを言ってごめんねと送りたいと思います。母の92年の人生、私の62歳の人生。違いはあれども親であることにはちがいありません。柱に刻んだ私の成長記録。私と両親の宝物です。
最後になりますが「愛と死を見つめて」というドラマが実際の出来事となりました。
かあちゃん、ありがとう。もう少し頑張ってね、回転寿司が最期の楽しみになるかもしれないけど子供として感謝しているよ
92歳までご苦労様でした。

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